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書評 ZINE『岡山芸術ごっこ』

  • 執筆者の写真: 渡辺俊夫/WATANABE Toshiwo
    渡辺俊夫/WATANABE Toshiwo
  • 2022年12月13日
  • 読了時間: 9分

更新日:4月7日

 深夜、旅先の宿から200mほど離れたローソンまで歩く。田舎のIC付近によく見られる大型トラックが複数台停められる広い駐車場を備えた店舗。この店ではコピー機の需要はほとんどないのだろう。イートインコーナーの隅に追いやられているマルチコピー機のタッチパネルを操作して、ネットワークプリントサービスを起動する。“Q3D4L64GNF”と打ち込むと13のPDFファイルが表示される。PDFファイルには番号が振られているが、なぜかその順にソートされていない。001と009がカラー印刷、それ以外がモノクロ印刷という指示に従い、プリントを開始する。PDFファイルがひとつひとつロードされ、レーザーで生成された版を通して印刷されていく。各ファイルの容量に差があるのか、ロードの速度はばらついている。
 本書は岡山芸術交流の総合プロデューサー石川康晴によるセクシャルハラスメント疑惑が報道されたにも関わらず、そのことの説明のないまま芸術祭が開催されたこと(1)に抗議するパフォーマンスイベント「岡山芸術ごっこ」内で制作された。パフォーマンスの発起人として「ごっこ遊びというバカバカしさに包んだ抗う手段なのです (2)」と態度を表明するのは美術作家/魔女の菊村詩織である。菊村は、前回の岡山芸術交流が開催された2019年に岡山市に長期滞在し、個展を開催して以来、現地の作家やギャラリーと交流を続けてきた。そうしたゆかり深い土地で、ハラスメントの存在を無視したままに芸術祭が開催されたことが、現地に分断を生み出しているという発起人の問題意識から出発したZINEである。
 DIYによる民主的なメディアとしてのZINEの特徴は、抵抗や議論の場をつくりながら軽やかに流通することにある。この特徴からZINEは90年代以降のフェミニズムとも密接に関係してきた(3)。当然、本書もそうした文脈から語ることが可能だろう。他にもレイ・ジョンソンやセス・ジーゲローブの名を思い浮かべるかもしれない。しかし、ひとまずそうした文脈からの語りを留保したい。それら過去の事例とは思想的、方法論的な部分で共通するところもあるが、安易な結びつけはむしろ、今日的な条件下で実行されたこの試みを見誤らせる。そこで本稿は、コンビニエンスストアのマルチコピー機から出力された、物質としてのZINEを鑑賞するという体験そのものに焦点を当てる。
マルチコピー機から次々と吐き出されるページには、さまざまな筆跡の手書き文字、あるいはフォントでテキストが記されている。詩、ドローイング、なかにはコラージュとそれぞれの仕方で、岡山芸術交流に関する意見が表明されている。印刷されたうちの一枚を手に取る。太字のフォントでコピー用紙の左端上部に刷られた「怒っている。」から始まるテキスト。ハラスメントの当事者だけでなく、加害を擁護する者、加害を疑う者、加害を過小に見積もる者、無関係でいられると思っている者に対する怒りの表明。文末には著者名を表すと思われる「ヌ」の一文字がある。テキストそのものは短く、A4サイズの紙は半分以上が何も印刷されず余白となっている。しかし、そのことがかえって言葉にならない怒りを感じさせる。コピー用紙という物質に結実したそれは、スマートフォン上に表示されたテキストのように、指先でスワイプすれば消えてしまうものではない。
一枚が出力されるごと、手に取っては内容にざっと目を通す。次から次へと情報が流れ続けるSNSのタイムラインとは異なる「待たされる」という感覚がそこに生じる。マルチコピー機が紙を吐き出すのを待ちながら、一枚一枚ページを並べ替えてみる。PDFファイルが振られた番号順にソートされていないことから、印刷される順序と実際のページ番号は異なるはずだからだ。印刷されたテキストにノンブルは振られていない。明確なのは、タイトルが印刷されたカラーページが表紙であることくらいだ。次々と目の前に現れる印刷物を眺めては、順序を推測しようとするが、ページ前後の繋がりを見出すことは困難である。このことは鑑賞者に「各ページを等価に扱う」あるいは「任意の順に読む」という振り付けを生じさせる。
 印刷され、まだほのかに熱を帯びた13枚を通読すると、本書が複数の著者の寄稿によって成り立っていることがわかる。ひとりで1ページを使用しているものも、複数人が1ページにテキストやドローイングを寄せていると推測できるものもある。記名されているもの、匿名のものなど様々だ。言及すべきは、本書が「寄せ集め」的に構成されていることだろう。というのも、寄稿されたテキストには、驚くほどにトーンの差が存在しているからだ。「わたしは」と個人的な怒りに焦点をあてた「ヌ」の詩とは対照的に、山もといとみの寄稿はアウトライナーのスクリーンショットとドローイングによって、岡山芸術交流にまつわる諸問題を構造的に分析する。ハラスメントの全容が明らかになっていないこと、芸術祭の外で起きた事件であることなどにも触れ、本件が「話しづらい」理由を言葉にしてゆく。それは怒りというよりも、状況を整理することで、平静を取り戻すための表現だ。なかでも、岡山芸術交流をめぐる諸問題を象徴するのは、トダによる寄稿である。「ここにいるぞ」あるいは「見えているのか」という手書きの文字が反復され、矩形に並んでいる。その中心は空白である。矩形の中央から右辺を貫くように「なんでーーーーーーー」の文字がコラージュされている。叫びによる円環の破れは、不可視者の存在をあらわにする。いないものとされてしまった被害者、あるいは、抗議の声があるにも関わらず、「把握していない」とする芸術祭側の態度と不可視化された私たちという関係の表象。
 芸術祭の主催者および、それに参加する作家たちと岡山で創作を続ける作家たちのアートワールドにおける影響力の差は歴然としている。こうした権力勾配によって「岡山芸術ごっこ」は、ほとんど黙殺されているといってよい(4) 。意図的な無視への抵抗、声をあげることのできない者たちとの連帯を目指して、本書は一般書店ではなく、コンビニエンスストアを介して流通している。もはや社会インフラとも目されるほどに、国土全体に張り巡らされたコンビニエンスストアの流通網は、ありとあらゆる場所へ抵抗の意志を伝達することを可能とした。本書は複数のチェーン店でマルチコピー機を介して出力される。そのなかで大手のローソンとファミリーマートを合わせただけでも約3万店舗が各地に点在し、オホーツク海に面した町から石垣島までもカバーする広大なネットワークが形成されていることは特筆にあたいする。しかもそれは、どの場所においても、同じ紙に印刷された「オリジナル」のZINEが供給されるということである。マルチコピー機という現代のテクノロジーが、即時の流通、同じ鑑賞体験を可能としたことによって、私たちはひとつの抵抗運動を共有する(5)。やや閉ざされたネットワークを通じて結晶となり現れるそれは、物質化した思考の複合体である(6)
 岡山芸術交流2022はタイトルを「僕らは同じ空のもと夢をみているのだろうか」とした。アーティスティックディレクターのリクリット・ティラヴァーニャは同展のステートメントで美術の世界における西洋的ヘゲモニーを批判しながら、「ここでいう夢は、違いのある空や、多元性のある空で見る夢、つまり、西洋的規範の周縁にある物語表現の中で見る夢を意味しています。私たち(参加者と鑑賞者)からすると自らが規範的とみなす世界の外にある表現を経験するということです(7) 」と述べる。それでも、メタフォリカルな「空」と「夢」に多様性礼賛の含みを持たせつつ、中心と周縁という構造自体を揺るがすことない、心地よい他者としての立場をとっていることは明らかだ。それに対して、岡山芸術ごっこはリテラルに「同じ空のもと」で同じZINEを手に取り連帯を促す。また、菊村はこれまでの活動でたびたび「夢」を題材とした作品を制作してきた。しかし、ここでいう「夢」は心地の良いものだけではない。むしろ夢こそ因果律から解き放たれ、不条理が私たちを絶え間なく襲いながら、その規範を揺るがすものではないか。本書において、予期せぬ松川は夢についてのテキストを寄せている。夢のなかで青鷺に触れ、油分を含んだ水で、その手を汚したことが次のように記される。


何度拭っても左手は綺麗にならない。左手がこんなに汚れていてはみっともなくてとても何人かに会えたものではない。早く手を洗ってしまいたい。左手はポケットに隠して先を急いだ(8)


 汚れた左手が隠喩であることはいうまでもないだろう。拭っても綺麗にならないというところからは穢れの概念を、触れるということからは性的な加害を連想させる。だが、これは夢という虚構を通して加害を描こうとするだけのものではない。注目すべきは、これを変奏するかたちで松川が追体験している点だろう。立場が入れ替わってしまうことの不条理。反転可能性という不快な想像を喚起させるにまで至ることがひとつの達成である。本来、私たちの目を開かせるのは悪夢であるのかもしれない。
 電子のネットワークが魔法陣を描くように、各所へデータを高速流通させる。紙に刻み込まれた術式は一冊のZINEとしてマルチコピー機のトレーに排出され、手中に収まる。魔女(たち)の呪術は放たれた。あなたの手の中にあるそれは、けっして心地の良い夢など見せてはくれない。


脚注

(1)岡山芸術交流と総合プロデューサー人事に関する諸問題は次の記事に詳しい。Tokyo Art Beat「【追記あり】「岡山芸術交流」総合プロデューサー変更を求める陳情書を市民団体が提出。ハラスメント報道などを問題視」(https://www.tokyoartbeat.com/articles/-/okayamaartsummit2022_news_1119)(最終閲覧日2022年12月1日)

(2)ZINE『岡山芸術ごっこ』より

(3)フェミニズムとZINEの関係は次の文献に詳しい。アリスン・ピープマイヤー『ガール・ジン: 「フェミニズムする」少女たちの参加型メディア』野中モモ訳, 太田出版, 2011.

(4)筆者が確認する限りでは、岡山芸術交流や岡山芸術ごっこに対する言及は、美術関係者の間ではほとんどなされていない。メディアでの報道やSNSで確認できた抗議のほとんどが岡山ゆかりの人物によるものだった。

(5)広大な流通ネットワークによって即時に、カラープリントのページを含めても340円というわずかな額で同じ冊子を手にすることができることは、抵抗運動の観点から見れば、速度とコストの点で優れた選択である。

(6)この「複合体」は筆者が考えるところのキュレーションである。キュレーションの成立要件は作品を空間に陳列することではない。

(7) 岡山芸術交流公式WEBページより(https://www.okayamaartsummit.jp/2022/about/)(最終閲覧日2022年12月1日)

(8)ZINE『岡山芸術ごっこ』より

(9)本稿は筆者が自発的に執筆したものであり、依頼を受け執筆したものでないことを付言しておく。
 
 

©2022 渡辺俊夫/WATANABE Toshiwo

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